「愛」~M・A・N・A

     著 姫月 命(きづき あい)
       
       
       
       
       
       
       
       
                        ヨハネ福音書13:
わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる


 


 

 いつもと変わらぬ朝の光を、全身で受け止めるように窓に向かう。
さわやかな春の香かほりが鼻を潤した。

―後、何度この同じ朝を迎えるのだろう?

そう心に呟いて、振り向いた教室に何とも言えない感嘆のため息を零した。
組。
生徒の汗と涙を吸い続けた48の机が静かに、朝の光を反射している。
年生を担任するのは、これで回目である。
しかし、今回の担任は今までのどれよりも心と人生に残るものとなった。

―私は、責任を果たせただろうか?

脳裏を昨日のTVのニュースが流れた。
「一家人を惨殺しようとした容疑者(16歳)の担任教師の証言では、実に品行方正な…。」
中高生の犯罪が横行している昨今、教師の役割と資質が再度問われている。
石塚いしづか 寛ひろしは確かめるように誰も居なくなった教室でこの1年を振り返っていた。

 人間の発想の原理とは一体どんな様相を持っているのであろうか?
アフリカでは現在でも以上の数は沢山と数える部族が存在する。

 進法、10進法は、最も我々に身近な発想の原理に基づいていると言えるであろう。
片手なら指本、両手なら指10本である。この進法と10進法は、言い換えるなら、『指進法』と呼べるかも知れない。
古来、人間はこの10で世界を理解しようとしてきたのである。否、古来…即ち現在でもである。
人類は本当に進化したのであろうか?
指で数を数えていた人間が崇拝していた神、即ち「太陽」に目を向けた時、その眩しい光から生まれる漆黒の影を数える事に到達したのは、いつ頃の事であったのか?
人類は、昼と夜の間にある、もう一つの光と闇「存在」と「影」によって、「時間」と言う概念を獲得する。日時計の始まりである。
最初は4分の、次に分の、そして分の、更に10分の12分の24分の36分の48分の60分の、120分の180分の、……。
『円』と言う新しい様相の幕開けである。

 12進法、36進法、60進法は、『円進法』と呼べるかも知れない。
大地(人間)から天(太陽)へ、発想の原理が姿を変えた瞬間である。
人類は、進化を遂げたのであろうか?
「指」即ち自分の発見から、「太陽」即ち大自然の理解への道程は、まるで、今世紀までの有史全体の発展を物語っているようにも見える。
そして、20世紀、人類は、大自然への開拓を始める。
コンピュータ(デジタル)の時代である。
大地(人間)から天(大自然)へ、発想の原理の姿を変えた我々は、コンピュータと言う(人工)の様相を手に入れるのだ。
進法、16進法の登場である。

 

=X

 

Xが初めてでは無くなった瞬間である。

 

 愛知県、名古屋市立の高等学校で数学の教鞭を執る石塚寛は、この過程に言い知れぬ甘美を味わうのだ。
の発見、i無理数の発見、素数、複素数、数学は、発見と進化に満ち満ちている。
偶数の全体の数は、整数の全体の数と一致する。
時間は、虚数の世界に在って、既存性を立証する。
我々は、発見こそすれ、未だ進化を遂げてはいない。同じ枠の中にある「もの」の様相の多様性の中にどっぷりと浸かっているだけなのだ。新しいと呼ぶべきものは、本当は無いのかも知れない。
或いは時間が虚数領域に及んでいる事が、既に答えを教えようとしているのかも知れない。
それでも新なる世界の別の様相を探す楽しみこそ、この数学には、在るのだと石塚は確信していた。

 

数学は、創造ではない。

 

むしろ創造性を持った、それそのものが量りなのである。

 

 たとえば、
球を支える最小点は、点である。
その一つ一つの点を結んで出来る立体は、正三角形を各一面づつに持つ、正四面体となる。

 平面に、おもむろに「点」を一つ置く。
次に距離を持って、もう一つ「点」を置く。
この二つの「点」が結ばれると「線」が生まれる。
次にもう一つ。
「点」が「線」から「面」へと形を変えるのが分かるだろう。
そして、さらにもう一つ。
閉じた世界から、座標軸を3次元に置きかえると、
「点」が「面」を引き上最初の立体を誕生させる。



正四面体は、このような立体である。



は指を折る行為に留まるのではなく、それ自体が次元構造を持っているのだ。

 

その「点」がさらに数を増して行く。
その「点」の支点が球と言う枠を超える時、計り知れない世界がそこに現われるのである。
複雑さ…そこにもしかしたら「進化」が隠されているのかも知れない。
石塚は、多くの数学者や物理学者がそうして来たような、世界(宇宙)を知るための数学には、興味が無かった。むしろ数学の内に秘められている謎を解く事で人類史上誰も未だ成し得ていない「進化」への鍵を手に入れようとしているのだ。

 

進化…。

 

 石塚の心に小さな小さな手が浮かんだ。
赤ん坊のような小さな手である。
生きていればつになる筈のその手が、小さな指を本立てている。
ピースでもパーでもない。
つの指である。
生まれた時から器用に親指と小指を曲げながら、まるで何かを訴えるかのように本の指だけは、けして曲げようとはしなかった。
石塚は、その手を忘れる事が出来なかった。
その指を、忘れられずに居るのである。
最期まで本だけ立てていた指。
―お前は何を伝えたかったんだい?

 

石塚 愛(いしづか  まな)

 

別れた妻との間に産まれた亡き娘の名前である。
一年前に交通事故で亡くした、たった一人の娘であった。
妻が別れ話を切り出したのは、葬式も間も無い夜の事であった。
確かに無傷で帰ってきた自分に、責めを感じなかった訳ではない。
歳の子供をベビーシートに座らせるのもなんだと思い、シートベルトはしたものの、小さすぎた愛には、何の効力も発揮しなかった。

 事故は明らかな自分の不注意から起こった。
徹夜続きで生徒の答案と向き合っていた責か、思わぬ睡魔に見廻れたのだ。
名古屋は車道が他県より広いと言われてはいるが、小道に入ってしまえば他県となんら変わりはない。
石塚が、うとうとした瞼をこすって目を開けた時には、もう遅かった。
車道を大きく外れ、電柱にぶつかりそうになるのを必死にハンドルを切って避けようとした。
フロントガラスにぶつかりそうになる電柱を、急ブレーキと急回転で避けきり、車は見事に横転した。
車体の屋根を公道にこすり付けながら、10数メートル進んだ所でシートベルトに吊られたまま石塚は、難を免れた。
しかしその時、石塚を吊ったものと同じシートベルトは、石塚の隣りで愛する娘の首を皮肉にも締め付けてしまったのである。


一瞬、石塚は放心状態のまま、逆立ちの風景を見つめていた。


数分後、我に返った石塚は、娘がやけに静かなのに気が付いた。
「愛!」
振り向いた石塚のほんのすぐ傍らで、愛は眠るように息絶えていたのである。
突然の、驚愕であった。
石塚は、叫ぶ声すら、失っていた。
嘘のようなあっ気なさで、娘を失ってしまったのである。
そして、その次の日の夜、石塚は最愛の妻をも失ったのである。

 
 である。


石塚は、無言の内で妻にそう接してきた。
決して妻を蔑ろにしたつもりはない。
むしろ大切に思い、妻を尊重していた。
妻を誰よりも平等に扱ってきたつもりである。
しかし石塚の妻、利江子にはそれが辛かった。
寂しかったのである。

= が利江子の想いの中では1になる筈であった。

二人で手と手を取り合いながら、助け合って人生を生きて行くつもりであったのだ。
しかし石塚には、そんな妻の想いが届かなかった。
互いの役割よりも、互いに補い合う関係、それが家族じゃないの?
利江子の心は、夫を理解するのに疲れてしまった。
この人の中では、やはり なのだと、娘を失う事でついに離婚を決意する。
石塚は、何度も後悔の涙を流した。
しかし涙の始まりを理解することは出来なかった。

―どうしてこんな事になってしまったのか?
―なぜ娘も妻も失わなくてはならなかったのか?

何が悪かったのか?
「フンっ!」
思いの行き着く先は、混迷しかなかった。
その迷いを断ち切るように、日本刀を振った。
和室を、風を切る音が疾る。
石塚は、高校で剣道部を顧問している。
日本刀との付き合いは長い。
石塚は、その日本刀で何度も死のうと考えた。
その度に今日のように脳裏を娘がよぎるのだ。
喉に刃を突きつけて、心に浮かんだ娘の姿に死ねずに夜通し泣き続けた。

 

―死なせてくれ。

 

心の奥でそう呟きながら、石塚は娘のことを慕っていた。
その娘が、産まれた瞬間からずっと右手の本指を立てていたのである。
印象的な思い出であった。
不思議な思い出である。
娘の指は、何かのメッセージだったのだろうか?
それとも……。

本の指……。

……? !。

そうか!!




 石塚は風を切る時に刀が見せる一瞬の閃光のような閃きに我を失った。
かと思うと、豪雨のように涙しながら、その場に崩れ落ちるように倒れ込んだ。
―そうか! そうだったのか!
抑えようの無い想いが、突き上げるように石塚の胸を打った。
―なんでもっと早く気が付かなかったんだ!
「愛!」

窓の外には漆黒の闇が、雨の中に広がっていた。

まるで、どんな叫びも呑み込んでしまうように。
その漆黒のカンバスに娘の姿が、浮かぶ。
娘のあどけない笑顔が、雨の向こうに消えて行った。
ゆっくりと、娘の顔が流れて行く。
その後を、妻の顔が流れていった。
手をつないで、三人で歩いたあの、思い出の光景が、…瞼の向こうで、昨日のように浮かんでは消えた。

=はだとばかり信じていた夫と

= を1になるようにと願った妻の間で、いとおしい娘は産声を上げた時から教えたかったのだ。

でも、でも、無いことを。

= が になったのだと言うことを。

 

「愛…。」




 娘を失い、妻を失った後悔の涙は、もう流し尽くした。
石塚は、心にそう確認するように娘の名を呟いた。
校舎の右にある講堂の舞台袖である。
例年より早く咲いた桜の花びらがどこから舞い込んだのか、板張りの舞台の上に数ひら落ちている。
大変な1年だった。
辛く、苦しい1年であった。
教師としてではなく、人間として、戦わなくてはならなかった1年を石塚は、思い起こしていた。
講堂の天井を見上げ呼吸を整えると、視線を降ろした先に座している卒業生達に目を向けた。

「卒業生担任代表、祝辞。」
石塚の春が動き出した。
ゆっくりと立ち上がり、舞台の中央へと進んで行く。
一人一人の生徒の顔を見ながら、込み上げる感情を押さえて、石塚は最期の言葉を贈ろうとした。

―君たちは犯罪者にはならなかった。だがそれが、私が責任を取れたと言う証にはなるまい。君たち一人一人が今日を迎えたのだから。私は、自分の娘を失ったことで、君たちを自分の子供のように思う事ができた。自分の娘を失ったことで、君たちと別れることの辛さも乗り越えられるのかも知れない。教師として、父親として、この場所に居る事をこんなにも感動した事はない。ただ、感謝したい。ありがとう。

いよいよ祝辞を述べようと、視線を投げかけたその時であった。
石塚は自分の眼を疑った。

一瞬、言葉をなくした石塚に講堂が静まり返る。

静寂がより一層視線の先にあるものをはっきりと浮かび上げる。
紛れもない。
卒業生の最後尾の脇に慎ましく立っているのは、紛れもない妻、利江子の姿であった。
いや、もと妻である。
利江子の瞳は、しっかりと石塚を捕らえていた。
二人の視線がしばらく時間を止めた。
溢れそうになる涙を必死に堪えると、その先で静かに利江子がうなづいた。
夫婦の間での合図である。
疑う必要はなかった。
彼女もまた戦い上げたのである。



「……今日、わたしも、君たちのおかげで一つの大きな戦いを卒業することが出来ます。ありがとう。次のステージでのそれぞれの活躍を心からお祈りしています。」
渾身を込めた祝辞が終ると、講堂に拍手の木霊が起った。
石塚の瞳は感謝の想いに打ち震えながらもう一度宙に視線を移し、愛まなを見た。

―愛、私の数学は、進化したよ。お前のおかげだね。なぜって?愛、私はお前を確かに失ったが、その事によって眼が醒めたからだ。今私の目の前には、こんなにも多くの愛あいがあるのだから。

そして、私が教師である以上、この愛は増え続けるだろう。お前の妹や弟と共に…。



※この物語はフィクションであり、登場する人物・団体名は一切実在するものではありません。

FIN

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