J・T・Dー0001

 
JTD-0001:
 
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まずはじめに注意しておこう☆ JTDは、一太郎の拡張子のことではありません。 Journey to Deep.の頭文字です。 これから、少しづつシリーズとして書いて行こうと思う作品の名前とでも憶えておいてください。 ふとした閃きやアイデアに辿りついた道のりを遡ると、派生したいくつもの基点となるべく駅を通り過ぎます。 ここでは、そんなアイデアの駅に立ち寄りながら、一緒に知の旅行をしてみたいと思います。 この作品のテーマは旅です。 作者である私と、読者であるあなたの……どこまでも深い旅。 読み終えた時、読者は文字通り、それぞれの駅から今度はご自身のアイデアの旅に出ることになるでしょう。 その旅は、楽しいのかって? さぁ、それは誰にも分かりませんね。 ええ、作者である私でさえ…… それでは よい旅路を ---------------------------- JTD-0001:The First Station 【FRAGMENTS】 ■三つの遺産について  コンコルダンス(Concordance)と言う言葉を知っている人はどれだけいるだろう? 【一致】【調和】などと言う意味を持つこの言葉だが、 最も多用されたのは【用語索引】と言う意味での活用だろう。  クリスチャン(Christian:キリスト教徒)なら、特にプロテスタントなら、このコンコルダンスは、日常的に持ち歩いてすら居る者も少なくはないだろう。 私も、長年愛用してきた一人である。 聖書と言う書物は実に興味深い書だ。 私は、全ページを通しては未だ11回ほどしか読み通したことがないが、ひとつの書を、それも日本語でなら4000ページ強ある書を11回も読み返すなど、実際にはあり得ない。  残念ながら、私の人生でも聖書より薄い書でさえ、聖書より多くの回数読み返した書は、仏典の般若心教くらいである。 この聖書を読む際に、実に活躍するのがこの「コンコルダンス」と言うものなのである。  聖書には、1行ごとに番号が付けられている。 これは、写本が発見された当時、虫食いや風化などで抜け落ちた個所があり、それを後に翻訳家が検証し易いようにと付けられた、いわば付箋のようなものであった。  それが後々にも活用されてきたのには訳がある。 その訳とは、ユダヤ人の風習と実に深い関わりのあるものであった。  そもそも、聖書は 3000年とも 5000年とも言われる昔に、いい伝えられた神話の語り部が遺したとされるものだ。 プロテスタントと呼ばれる新教には、新約聖書と呼ばれるテクストが追加された。 そのテクストに出て来る人物が、世界でも知らない人がいないと言われる神の子"イエス・キリスト"だ。 旧約と呼ぶ39巻の書簡と、新約と呼ぶ27巻による書簡・手紙からなるこの聖書には、それぞれ書簡名と、章、そして行番号(節)が振られている。 今日では当たり前のように振られているこの番号など、存在しなかった時代にも実はこの番号と同じ機能を果たしたものがあったのだ。 それは、【記憶力】である。 口伝をのみ活用できた古代、人々はどうやって社会を形成し、数学や哲学を手に入れたのだろうか? まだ紙もインクもない時代、文字もねんど版も発明される前のことである。 そこには、現代人が想像もできない古代人の【記憶力】があったと言われている。 学習能力と言うものは、実は【記憶力】の一側面でしかない。 モルモットに使われるサルやネズミなどが学習するのは、決まって繰り返しの現象についてだ。 これには異論もある。 なぜなら、学習能力を測定する側に立つ場合、【検証】と言う枷(かせ)を取り除くことはできないからだ。 しかし、知性が学習を啓示や直感だけで始まったと仮定したとして、どだいそれを産みだせるのは第1世代までではないだろうか。 突然変異や例外は、決して否定されるものではないが同時に不可分要素でもないのである。 我々は、個体が経験した【学習】を【伝達】することで、個体が個別に経験した【学習=記憶】を共有すると言う特異性を持ち、より複雑な【社会】を獲得し今日まで進化し続けた。 【学習】は、個においては多くの生命が持っている機能であった。 しかし、この【学習】を飛躍化させたのが、第の遺産 すなはち 【記憶力】である。 この記憶力を更に大きく活用し、【社会】を形成させたのが、次の【伝達】 我々の第の遺産である。  古代ユダヤでは、最初に文字が神よりもたらされたと言う。 本来、文字は次的要素であると言うのが一般的だ。 なぜなら、文字=伝達手段であることが多いからだ。 しかし、古代ユダヤでは文字は伝達手段ではなかった。 文字は、神の様相であった。 その証拠として、ユダヤの文字、古代ヘブライ語には【母音】がない。 これは、音がないのと同じくらいの意味を持っているとされている。 しかし、【子音】に音がないと言うのは早計だ。 おおよそ自然界の音は、【子音】のみで顕した方が明確な場合も少なくはない。 あながち、古代の人類は【子音】だけで会話していたかも知れない。 しかし、そうなるとこれまた歴史がひっくり返ることになる。 聖書は、まったく別の言葉だったことになってしまうからだ。 軌道を少し修正しよう。 将来、もしかしたら聖書の古代の文章が、【子音】のみで解釈できる時代が来るかもしれないが、今日は現代の人類が【母音】と【子音】とで解釈した書を追って旅を続けることにしようと思う。 聖書が物語る古代のユダヤでは、文字以前から、人々は会話をし社会を形成している。 このとき会話している言葉に、文字を帰化させたのが、レビ族と言う種族だと聖書は語る。 そして、ユダヤでは、神の教えを文字として遺す際、母音を明記しないためその意味に辿りつくための道具として【記憶力】を用いたと言うのだ。 文字は、イメージであり、イメージは非常に強力であると言うことを古代のユダヤ人はよく知っていた。 そのため、15歳になると、文字だけに寄らず、自然界のイメージに個人が縛られているかどうかを判断するイニシエーション(儀式)を行っていた。 その儀式は実は、簡単で、山を登り山頂で神を拝し、下山する。 途中と下山後に老師が質問する。ただそれだけのものであった。 この一見実に普通の日常の出来事の中から彼らは、その人物がどれほどイメージに囚われているか、或いは、縛られやすいかを判断した。 日常的に行われ続けた記憶力の強化と、イメージに囚われない訓練が、彼らにもたらせたのはまさに、Concordance Program……すなはち 今日、コンピューターで言うところの検索エンジンのような働きだった。 そして、このコンコルダンスに不可分な要素こそが、第の遺産               【FRAGMENTS】 すなはち【断片】である。 【断片】を現す別の単語で身近に感じるのはこれかもしれない。               【TAG:タグ】 私たちは、今日数多の断片によって記憶力を使い、学習の末、進化を続けている。 果してどこへ向かって、この旅は続こうとしているのだろうか? 我々は、時代の断片から何を受け取っているだろうか? 【伝達】される数多の断片を追って次回、知の駅をめぐる旅はさらなる深みへ向かう。 どんな旅が待っているのか 一番楽しみにしているのは、私自身かも知れない。 つづく NEXT Station is【INERTIA】
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