あきらめるのはまだまだ…早い。

 
『あきらめる』 
と言う漢字は、『諦める』と書く。 

諦めるの意味は、明らかにすることだと言うものが居るが、実際は違う。 

諦めるの【諦】はそもそも仏教の用語であり、渡来文字である。 
この【諦】は、仏教では釈迦の教えの前半期、すなはち爾前、あるいは小乗と呼ばれる教えの中で登場する。 

『四諦』(catvaari aaryasatyaani) 

がそれである。 

『四諦』と言えば、まず思い浮かぶのが 
『苦集滅道』(duHkha-samudaya-nirodha-maiga) 
ではないだろうか。 
この言葉が最もよく知られている経典は恐らく 
般若心教であろうと思う。 

しかし、この『苦集滅道』は、『四諦』の様相であり、 
『四諦』の本懐ではない。 

catvaari aaryasatyaani 
パーリ語で『四つの神聖なる真理』と書かれたこの『四諦』は、釈迦が最初に取り組んだ真理の難題がテーマになっている。 
すなはち、乳母とも乳人とも書かれる『めのと』の子と遊んでいた釈迦が、階級制度に疑問を抱き出家してまもなく城下に住む庶民の苦しみ、悩みの本質は階級制度への不満ではなく、もっと本質的なものであることに気づいて更に悟りを得んと旅立つ折に、知ろうとした4つの『苦しみ、悩み』に由来する。 

その4つとは、【生】【老】【病】【死】の4つである。 

階級の制度でもなく、貧富の格差でもなく、庶民も貴族も出家者も、それこそ平等にもつこの4つの『苦しみ、悩み』は釈迦の初期のテーマに深く根ざした。 

この4つの真理こそ、catvaari aaryasatyaani 

『四諦』の『四』である。 

その『四』のそれぞれが持つ様相・軌跡が、 
『苦集滅道』(duHkha-samudaya-nirodha-maiga) 
と言うものなのだ。 

そして、この【生】【老】【病】【死】の様相・軌跡『苦集滅道』を解き放つものが、『諦』と言うものである。 

すなはち、『四諦』とは、 
【生】【老】【病】【死】の軌跡『苦集滅道』を解き放つもの。 
【諦】のことに他ならない。 


ここまで学んで、ようやく、【諦】が異彩を放つ。 
ここまで学んで、ようやく、【振り出し】に戻るのだ。 
いいや、 
ここまで学んで、ようやく、【本題】に入るのである。 
ここまで読んで気づかれた方はいるだろうか。 

仏教は隠喩で説かれている。 
ここでの隠は言わずと知れた、【諦】である。 

『四諦』は、本来【諦】で好い(十分な)のである。 
ただ、その【諦】の最も代表的なものが4つあると言うことなのだ。 

ではいったい、【諦】とは何のか? 

言葉とは実に奥深いものである。 

言葉そのものが生きていて、時を重ねるからだ。 

時を重ねるというのは、歳を取ると言う意味である。 
つまり、成長もすれば、廃(すた)れもする。 
不良になるものもあれば、仲間を募って複数の意味を凌駕するものも現れるのだ。 
(海外や外国人の刺青などでよく見かける間違って使われている日本語もその一つかも知れない。) 

【言葉】とは、人間が創造し得た唯一の『生命』だと言っても過言ではないかも知れない。 

あなたは今日人生をどう生きているだろうか? 
私は実は・・・今日にも倒れ、力を失い、すべてを投げ出しそうに感じて生きていた。 

しかし、あきらめるなと言うものが己が内に棲(ひそ)んでいる。 

あきらめるな…か。 

なかなか面白い。 

【諦】とは何か?については、今日はここまでにし、明日語るとしよう。 

誰かのために書いている訳ではないが、もし、ここまで読んだ奇特者が居るなら、まずは、心から深く感謝したい。 

人生とは得てして皮肉なものである。 

しかし、皮肉には隠喩があるものも多い。 

その隠喩にたどり着きたいのなら、明らかにするのもいいのかも知れない。 

『諦める』の意味は『明らかにする』 
と古来言われてきた真意は、むしろ、明らかにせよ。との隠されたメッセージなのかも知れない。

明日またお会いしよう。 

2006年04月07日
 
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--------------------------------------------- PAÑCAKKHANDHA  (パンチャッカンダ) 【悟】と言う漢字には『心』と『五』と『口』が描かれている。 【吾】と言えば、【自分】のことを指す漢字だ。 なぜ『五』と『口』が【自分】のことを指すだろうか? それを答えてくれるものが煩悩と関り深い「仏教用語」の中にある。 『五蘊』(paJca-skandha:パンチャスカンダ) がそれだ。 【蘊】と言う字は、身近なところでは薀蓄(うんちく)と言う言葉で私たちの身近にあるが、本来の意味は【水草】だと言う。 そもそもpaJca-skandhaとは、【paJca-五】と【skandha-集まり・塊】を意味する。 『五蘊』は、その昔『五衆』と表記されたこともある。 『衆』の方があっているような気もするが…。水草の群生する姿が【skandha-集まり・塊】に最も合っていたのかも知れない。 この『五蘊』は、「色」「受」「想」「行」「識」と言う五つの『蘊』の総称を言う。 簡単に言うと以下のようになる。 「色」 は、【からだ】 「受」 は、【感覚】 「想」 は、【知識】 「行」 は、【行動】 「識」 は、【認識】 それでも難しいかもしれないが、この『五』は、つまるところ【身体】を指す。 では『口』は何なのか? と思う方は、洞察力がある。 仏教の役割のひとつに、【自分の本来の姿を識(し)る。】と言うものがある。 禅那-『禅』がそれを代表するが、『五蘊』はその『【私】を知るときに辿る道』なのだと教えられる。 しかして、『五蘊』は、皆これ自分を《表している》が、同時に自分を《識る》ものではない。 『業(行い)』は、『五蘊』に【余る】からである。 その余りの部分が、『口』すなわち「言葉-真言」なのだと言う。 この『身体』と『口』をもって『二業』と言う。 これに『心=意』を加えて『三業』とし、【業:karman(カルマ)】を表す。 つまり、 【吾】は、『二業』 【悟】は、『三業』 を表すのだ。 すなわち『吾』も『悟』も、、【業:karman(カルマ)】と言うことになる。 これより先は、空しく、『悟空』となる。 西遊記かよ!っとツッコんだ方は、センスが在る…。 と言うのも、西遊記の3匹のお供は、実は【六度】と【八正道】の間に隠れて居るからだが、それは別の機会するとしよう。 人生はまったく思い通りには行かないものである。 思い通りに行かないと、苦しみ、疲れる。 その果てに、あきらめようと思ってしまうのだ。 『諦めよう』と言うのではない。 『投げ出そう』とするのである。 しかし、『投げ出そう』とするのと『諦めよう』とするのは果たして何が違うのだろう? 最近、様々な人生の行き詰まりに出遭う度に、何もかもあきらめたくなることがある。 否、投げ出したくなることがある。 そのたびに、どこからか心の奥底に聞こえる声があるのだ。 そのたびに、まぶたの奥に映るそのことばは、 ーあきらめるな。 と、私に訴えかける。 この言葉は、私に、何を訴えているのだろうか? 投げ出すな?!と言っているのだろうか? 幼少より仏教をよく学び、漢字にも日本語にも知識を蓄えてきた。 【想蘊】には長けている筈だ。と言う思いが吾を突き動かす。 ーあきらめるな。 ”誰だ?” ーあきらめるな。 あきらめるな…か。面白い。 ふと、自分の内なる声にそう思った。 何故か? 『悟る』と言う字には『心』と『吾』がある。 それは『心』と『業』と置き換えられる。 『業』とは意図せず繰り返す自分の【命のパターン】のことだ。 仏教では、『十八界』と言うものになる。 『十八界』を簡単に言うなら、【今日在る自分の姿】と言えるだろう。 『悟る』とは、『【心】に【今日在る自分の姿】を照らすこと』と書く訳だ。 照見五蘊皆空 これは有名な般若心経の一説だ。 ー五蘊を心に照らして見ても、これまた皆空であった。 般若心経は、実に面白い経である。 ことごとく『心の中』のことを言っているからだ。 あきらめるとは、『諦める』と書く。 【諦】とは、『言』と『帝』とあるように、仏教の開祖になんとも相応しい漢字ではないだろうか? コーサラ国の王子、時の【帝】の言葉こそ、『諦める』 すなわち『諦』 これが、釈迦の最初の悟りの言葉であり、始まりの言葉であったとは、実に言い得て【妙】であり、また実に相応しい。 【帝】が『赤』と言えば、どんな色でも、【赤】になる。 【赤】だと言わねば、【死】が待っているからだ。 生きるためには、受け入れるしかないのである。 上下・貧富の隔たりなく人々が持ち、苦しんだ多くの【悩み】 【生】【老】【病】【死】 これもまた、逃れえぬ運命の門。 受け入れるしか道のない『言葉』であり、『定め』であった。 『諦めよ』とは、【受け入れよ】と言っているのだ。 さればこそ ーあきらめるな とは、 『投げ出すな!』 ではなく、 『受け入れるな!』 と言う意味になる。 ー受け入れるな! ここまで掘って、ようやく解かった。 【心】に映ったこの言葉は、私にこう言いたかったのだ。 ー受け入れるな! もうダメだ。 もうムリだ。 何もできない。 今更、間に合わない。 何の才能もない。 俺はバカなんだ。 疲れた・・・ 俺は・・・ 俺には、何の価値もないんだ・・・・・・ ー受け入れるな! それは、一時的な【迷い】に在って出した答えに過ぎない。 何の結果を出したというのか? まだ始まっても居ないことを終わらせるようなものだ。 聞くな! 混沌にあえぐ己の内の亡者の声を ー受け入れるな! ー受け入れるな! と 2006年04月08日
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般若が恋しい…。

最近仕事の面で、自分の技術力の無さに呆れる日々が続いている。 ー何やってんだろ。(心のため息) そんな時に限って、新入社員に研修する役割が回って来る・・・・ 教えるために発する言葉の一つ一つが、自分に刺さるとは、情け無い気持ちをさらに盛り立てる。 あ――――――くそうっ、 年を取ったな、オレ。 【若さ】が恋しいとは・・・・・・ 日本に伝来した仏教の経典には、漢訳(意写)されたものと音写されたものが混在している。 般若心経など、その最たるものだろう。 そもそも 般若波羅蜜多心経とは、 Prajna(Pnanna)-paramita-hrdaya-sutra と書く。 前半の般若波羅蜜多は、文字の通りその音に漢字をあてた当て字(音写) 後半の心経は、【hrdaya- 心臓】【sutra- 紐】の本意を訳し、 【心】と【経(お経の「経」と言う漢字は『縦紐』の元字である)】を当てた(漢訳-意写) 昔の経典は【葉】や【板】に記されていたものを【紐】で束ねて【巻物】とした。 この一束を【一紐】と言う表現で用い、それが後に【経典】と呼ばれるようになったのだ。 般若波羅蜜多心経とは、 『【Prajna(Pnanna)-paramita-】の【心臓部分】を束ねたもの』 と言うことになる。 中国では、唐の玄奘が西域(インド)から持ち帰って漢訳し集大成したとされるものだけでも、数えると優に600余巻になると言う般若経典。 その膨大な般若経の大々抜粋にして、核心を束ねたものが、【般若波羅蜜多心経】だと言う訳だ。 【音写】とは言っても、よく考えられて当てられたに違いない。 サンスクリット語で【Prajna】と言い、パーリ語で【Pnanna】と言うこの【般若】は、そもそも【智慧】を意味する言葉である。 【paramita:波羅蜜多】は、【彼岸へたどり着くこと】を意味する。 【般若】をそのまま『漢字』から意味を汲もうとすれば【般】は「搬出・搬入」などで身近にあるからわかるだろうが、【運ぶ】ことを指し、【若】は、『若さ』と素直に取れる。 つまり、『智慧』が『彼岸へたどり着く』には、『若さ』が必要だと言うのだ。 何とも理に適った言葉ではないか。 老いては、『彼岸』も『悲願』となるばかりの方が世の中多いのでは無かろうか。 ―もう無理だ。 ―今更… 『若さ』とは、【力】なのかもしれない。 『こと切れる』と言う言葉がある。 釈迦が数年もの断食に耐え、耳にした【琴の音】に、【中庸】の概念を悟ったと言う逸話に語源を遡る言葉だが、死んでは功徳も意味をなさんと言うこの【悟り】中にも、【般若】が潜んではおるまいか。 求道の情熱と忍耐には、それ相応の【力】が必要なかも知れない。 【彼岸】とは、本来、ガンジス川の対岸ことを指したと言う。 川岸からでは見ることが適わないと言う広い川だ。 水平線を望むばかりの大きな川の対岸をどう望み、その川の向こう岸に何があるのか知りたくば、ただ、『迷わず彼岸へ渡れ』と言う。 『彼岸へ渡れ(般若波羅蜜多)』 --------------------------------------------- 羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。 gate gate paara gate paarasam gate boodhi svahaa たどり着ける者よ、たどり着ける者よ。 最後まで彼岸に到達する者と供に、 悟りは、幸福のうちに住み続けるだろう。 --------------------------------------------- 川を渡りきる【力】もまた、『若さ』を要求するに違いない。 彼岸へ私を搬出する『若さ』が恋しいようでは、『彼岸』今や『悲願』となってしまっているのかも知れない。 Prajna(Pnanna)-paramita-彼岸へ達する智慧を携えよ。 ー負けてたまるか! 明日からまた、若い者などに負けず、学び直してみせてやる。 技術は、才能ではなく、努力で踏み越えられられるのだから。 がんばれ! オレ 2006年04月11日          

FIN

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